【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第23弾!え?こんなところに!河内街道の堤の崖裾に現存する田井の弘法井戸。

夏休みの自由研究の如く、探索してきました。寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ、今回のテーマは「田井弘法井戸」です。弘法大師にまつわるお話は、全国各地に残っていて、弘法の井戸と呼ばれる井戸は、全国にいくつもあるようです。寝屋川市内にも、弘法の井戸と呼ばれる井戸が4カ所(打上・国松・郡元町の湯屋が谷・田井)あることは、以前にもお話しました。そのうちのひとつが今回ご紹介する田井の弘法井戸です。

田井は郡から南に流れる前川の堤の裾にひらけた細長い村でした。前川は、三井や郡などの高台の端を流れる天井川でした。その堤防の右岸が河内街道でした。
現在は前川は暗渠され、道幅を拡げ国道170号線となっていますので、この下に前川が流れているとは気づきません。

これは、国道170号線の境橋交差点から青樹会病院のある方向を向いたところの鉄柵です。ここに田井の弘法井戸に下りる扉があります。閂にカギはかかっていません。
階段があり、崖下に下りていくことができます。

かなりの高低差があることがわかります。この下は、太古の昔は海(河内湾、のち河内湖)でした。この堤の段差は海岸線であったと言えます。

地形からして、田井は、一般的に低湿地なので、昔から農耕用水の不足の心配は要りませんでした。水不足よりもむしろ大雨の時の水没被害による稲作不況の心配がありました。ですから井戸を掘れば水は湧きますが、清らかな水は得られませんでした。

そんななかにあって、唯一、前川と南前川が合流する境橋の田井側の堤裾に清らかな水が湧き出るところがありました。

田井の人はここを「弘法井戸」と呼んで大切にしてきたそうです。

現在は井戸水を汲む人はいないので、屋根と塀で囲ってあり、さらにフェンスで中に入れないようにしてありますが、水は枯れずにありました。

田井に住んでいた男の人たちは、毎朝この弘法井戸の水を桶に汲んで、天秤棒で家に運んだそうです。
この井戸水は貴重な水として、飲料、炊飯、煮炊きに使い、日用雑用の水には使わなかったとのことです。
また暑い日には、河内街道を往来する人は境橋のほとりに生えていたという栴檀(せんだん)の木の下で涼をとり、この堤の坂道を駆け下りて、弘法井戸で喉を潤したことでしょう。
やがて、寝屋川市に上水道が引かれると、いつのまにか「弘法井戸」の印象がうすれて、住宅開発が進んで井戸へ通う道も狭くなり、使われなくなっていったそうです。

そんな田井の弘法井戸ですが、伝説があります。
昔、旅に疲れたお坊さんが、河内街道を通った時に暑くて喉が渇いて「どこかに水をくれる家はないか」と村に下りたところ、村の人は「この村はご覧の通り低いところで、水が悪うございます。少しお待ちください。水を漉して差し上げます。」と漉し壺で水を漉して差し上げました。

この様子を見たお坊さんが、村の南に立って杖で大地を突くと清らかな水がこんこんと湧き出たそうです。
そのお坊さんを村の人々は弘法大師に間違いないと信じて「弘法井戸」と名付けたということです。
この地は田井でしたが、現在の住居表示では緑町となります。

寝屋川市の歴史を紐解くシリーズバックナンバー、夏休みの自由研究の参考にいかがでしょうか。

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田井の弘法井戸はこちら↓↓↓

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