【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第24弾!かなりの有力者の墓か?太秦高塚古墳は5世紀後半の古墳のなかでも北河内地域最大級。

奈良の富雄丸山古墳から、国内最大級の銅鏡と蛇行剣がみつかったことが発表され、2023年1月28日、筆者も発掘現場の公開を見に行ってきました。

富雄丸山古墳

ここからの大きな盾形の銅鏡と長い蛇行剣の出土は4世紀という点や保存状態など、大発見に違いないのですけれど、灯台下暗しというように、わたしたちにとって大変身近なところにも古墳があります。
これは2023年1月29日に撮影した寝屋川市太秦高塚町にある太秦高塚古墳です。

太秦高塚古墳は、5世紀後半の古墳のなかで北河内地域最大級の規模と言われている古墳で、周辺は、生駒山地から派生した標高40~50メートルの丘陵がのびています。

付近には小金塚、向ヒ塚、廻し塚、モロ塚、上ノ山、墓ノ山、松谷山、段谷山など古墳の存在を窺わせる「塚」や「山」のつく小字名が知られ、かつては、かなりの広がりのある古墳群が存在したようです。「太秦古墳群」と呼ばれていますが、現存するのはこの太秦高塚古墳のみです。

寝屋川市は、古墳を1997年に市指定史跡第1号に指定し、保存を行ってきました。
ここからは鉄器も出土しています。

古墳は、直径約37メートル、周濠の底からの高さが約7メートル(復元値)の円形の古墳で、北西に造り出しと呼ばれる方形の区画をもつことが初めて分かりました。

また古墳は二段につくられていることが分かりました。一段目のテラス(平坦部)は幅2.5メートルで、部分的に円筒埴輪の底の部分が立っていた状態で見つかっていて、埴輪列がめぐっていたことが分かりました。

葺石(ふきいし)となるような石は出土していません。斜面の部分には葺石が施されていなかったと考えられます。

造り出しの部分からは、人物・家・盾(たて)・鶏・水鳥などの形をした埴輪や土器が出土し、この部分で古墳の祭祀が行われたことがわかります。

頂上部分は、土砂の流出で変形していましたが、東側で主体部の一部が残っていて、ここから短甲・鏃(やじり)・斧・馬具などの副葬品が見つかりました。

出土した埴輪や須恵器の特徴から、古墳時代中期後半(5世紀後半)に造られたと考えられます。

太秦高塚古墳は、以前は全体に木が植わっていて鬱蒼としていましたが、2001年12月から整備工事が行われ 、2002年4月1日に「太秦高塚古墳公園」として開園しています。

発掘調査の成果をもとに、古墳の築造当時の状態に復元され、一段目には復元した埴輪が並んでいます。

1962年には太秦熱田神社の裏山から牡鹿の頭部と考えられる埴輪が出土したり、1965年には太秦高塚古墳の南約300メートルで木棺直葬と考えられる主体部が発見され、鉄鏃、直刀などが出土しています。

すぐ隣は大阪市水道局の豊野浄水場です。

バスで行く場合は京阪バスの豊野浄水場前下車となります。

寝屋川市の中でも丘陵地帯では5世紀ごろには人々の生活の営みがあり、またそれらの人々が形成する集落がいくつかあり、それらの集落を統括する最もリーダー格だった有力者のお墓が、この太秦高塚古墳だったということが推察されます。
これを機会に歴史に思いを馳せながら古墳巡りウォーキングをするのも楽しいですね。

【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第23弾!え?こんなところに!河内街道の堤の崖裾に現存する田井の弘法井戸。

【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第22弾!川勝町にある秦河勝の墓を訪ねて。聖徳太子の側近秦河勝は、秦の始皇帝の生まれ変わり!?

【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第1弾!地形から読み取れる縄文時代。寝屋川市の半分は海だった!

太秦高塚古墳はこちら↓↓↓

2023/01/30 07:18 2023/02/26 04:35
neyamon

号外NETの広告出稿はこちら

号外NETメルマガ

号外NETゲームポータル

号外netは持続可能な開発目標(SDGs)を支援します

号外netへの提供提供求む!

号外net 全国で地域ライター募集