【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第13弾!はちかづき姫の里 寝屋長者屋敷と『山根街道』
寝屋川の源流を辿る②はちかづき姫の里 寝屋長者屋敷と『山根街道』
生まれた時から寝屋川市に住んでいる筆者にとっては、寝屋川といえば故郷であり、自分自身の源流でもあります。
寝屋川市の様々なニュースを毎日お届けする中で、いろいろな人と出会い、繋がり、新しい発見があります。
以前にも増して寝屋川への愛着が深まった筆者は、寝屋川の起点を眺めながら、寝屋川の源流を辿ってみたいという衝動に駆られて、早春の1日、自転車のペダルを漕ぎだしました。
寝屋川の起点についてのお話はこちらをご覧ください。↓↓↓
寝屋川市寝屋の交差点の下、交野市から流れるたち川と枚方市から流れる北谷川の合流地点から、寝屋川は始まります。
ここから、寝屋川の源流を辿るなら、たち川沿いを星田方面に向かいます。
しかし、たち川沿いの府道154号線(私市太秦線)とは別に寝屋の歩道橋をくぐったところに分岐があり、もうひとつの道があります。
王将の裏を上がっていく坂道、これが山根街道です。
最初、たち川に沿って私市太秦線で源流を目指そうと第2京阪を超えるところまでサイクリングしましたが、寝屋川の名の元となる寝屋の集落が気になり、途中で進路を変更、寝屋二丁目の不二鉄工所の壁に描かれている壁画に沿って一旦引き返して山根街道を通ってからいくことにしました。
この街道は、寝屋の集落を東西に横切る古来からの主要道であり、その延長上は東に東高野街道、西は京街道へとつながります。寝屋川市のほぼ中央を東西に横切ることになり、現存する街並みと併せ、古来の人々の往来する姿を充分に彷彿させてくれる歴史街道です。
この街道整備は「歴史街道跡整備事業」として、平成4年から8年にかけて整備されました。
「山根」というのは、山のふもとを指す一般的な言葉で、ここからは、東に生駒の山々が見えています。
これが株式会社不二鉄工所寝屋川事業所です。
現在の本店、交野事業所は、交野市星田北5丁目にあります。
創業は1954年大阪市で、ここ寝屋2丁目には1964年に事業所を新設しています。
不二鉄工所という社名ですが、時代に応じて新しい取り組みをされていて、現在は高機能光学フィルムの巻取機など新素材の分野の研究に取り組んでおられる会社です。
この事業所の壁面に寝屋のはちかづき姫が描かれています。
伝寝屋長者屋敷跡も描かれています。
山根街道沿いに寝屋長者の屋敷跡と言い伝えられる場所があり、江戸時代のいくつかの書物にも屋敷跡のことが記されています。
不二鉄工所のすぐ向かいが寝屋長者屋敷跡の公園として整備されています。
この場所には小さな池があり、以前は池の畔に数本の松が茂っていたそうで、これが屋敷の庭園跡ではないかといわれています。
寝屋長者屋敷跡と伝えられている場所に大きな説明板がありました。
さすがのはちかづきちゃんもこの大きな看板は持てませんね。
はちかづきちゃんの鉢が日よけにも雨除けにもなっているようで、お顔は色白さんです。
河内の国交野郡に寝屋長者といわれた寝屋備中守藤原実高という人がいた。夫婦円満だが、二人の間に子どもがないのがただ一つの不足であった。夫婦は大和の長谷寺の観音に祈願して、美しい一人の女の子を得た。両親の愛にすくすくと姫は育ち、学問・芸事にいそしんでいた十三歳のとき、母は病気になって死ぬのだが、その直前にわが子の頭に、何やら物をのせ、その上に大きな“はち”を冠らせて、“さしも草深くぞたのむ観世音ちかひのままにいただかせぬる”と歌を詠むのであった。母の葬式にもその後も、どうしても“はち”は姫の頭を離れない。体の一部のようにきちっとくっついて離れないのである。父は人々のすすめで後添いをもらったが、この人が優しかったら、この話はおこらなかっただろう。その逆で、気質のきつい人であって妹ができてからは一層高ずるのであった。夫にいろいろつげ口をして、ついに「はちかづき」を屋敷から追い出してしまった。「はちかづき」は行くあてもなく道を歩いていると、大川の辺りにきたので見るともなく水の流れを見ると、その底から亡き母が呼んでいるように見えたので、身をおどらせて川に飛び込んだが、かずいている“はち”が邪魔になって沈まない。流れのままに流れていたが、漁師の手で岸にほうり上げられた。川岸に上げられた「はちかづき」は、また堤を歩くのであった。そして、山陰三位中将という公家の一行にあい、このような者が邸内にいるのも一興だと、屋敷へ連れて行かれ湯殿番をすることになった。いままでしたこともない水汲み、まき割りから、湯わかしと、なかなかの労働だったが、「はちかづき」は懸命につとめた。この邸の四男の御曹子宰相(さいしょう)の君と、ある夜、湯殿で一度の出会いなのに、相思相愛の仲となった。ばけ物のような「はちかづき」と、御曹子との恋仲は邸中に広まり、両親の耳にまで聞こえたので、邸の名折れだから二人を離れさそうと「嫁くらべ」なる行事を計画された。そんな晴れがましい席に出られる自分でないことを知っていた「はちかづき」は邸を出ようとすると宰相の君も出るといってきかない。二人が一歩踏み出すと、「はちかづき」の冠っていた“はち”が前に落ち、金、銀、宝物に、いろんな衣装まで山と出てきた。それに“はち”のとれた姫の顔の美しいこと、宰相の喜びは大きかった。こうして、たくさんの物が出て、“はち”がとれたのだから、邸を出なくてもよいこととなり「嫁くらべ」に出席することにした。「嫁くらべ」を上々の首尾で終えた姫は、両親の殊の外お気に入りとなって、宰相の君との結婚を許され、財産分配で宰相の君は相続者となり、宮中に出仕し、追々出世をするのであった。二人の間には三人の子どもができ、かく幸福にあるのも長谷の観音のお蔭とお礼をし、そこで父寝屋実高の修行僧姿に会い、喜び語り合うのであった。
(寺前治一氏「寝屋長者はちかづき」より)
このイメージ図からも寝屋長者屋敷は大変立派なお屋敷であったことが想像できます。
昔、交野市の星田領と寝屋川市の寝屋領との境を南北に細長く伸びている「堀之内」という集落がありました。
「堀之内」という地名は関東地方にしばしば見られる地名で、もと豪族屋敷があったことを示しているそうです。
館(やかた)を中心に、その周囲に堀や土塁を造って敵の侵入を食い止めた防御用集落です。
この辺りは今も交野市と寝屋川市の境ですから、星田の堀之内は、おそらく寝屋の長者屋敷の堀之内ではないかと推測されます。
伝承地は堀之内の西側の台地上にあり、堀之内は屋敷の東に当たります。
地籍図を見ると堀之内の西と東に境界線に沿って南北に水路が付いていて、この水路が屋敷の外の堀としての役割を果たしていたのかもしれないし、また、その東隣が平池の地名があるところから、堀の役を果たす池があったのかもしれません。
そして、その東に東高野街道に出る所に車司(くるもうじ)と金門(かなかど)という地名が付けられていて、これらも長者屋敷にゆかりのある地名であることがわかります。
河内国交野郡星田村についてはこちらに詳しく書かれています。
また、この公園内には『愛宕山大権現銘石灯篭』があります。
この灯篭は寝屋の正法寺門前の街道沿いに立てられていたそうです。
平成30年6月18日の大阪府北部地震の影響により、令和元年にここに移設されたそうです。
門柱の竿の部分に銘文があります。
源流に向かう方向とは逆になりますが、山根街道を戻り、第2京阪を超えたところには寝屋のおいもほりやいちご狩りで知られる畑が拡がります。
のどかな田園地帯にねやがわ寝屋の森こども園があります。
ここからさらに山根街道を下っていくこととします。
今回は寝屋長者屋敷を中心にお届けしましたが、山根街道にはまだまだご紹介したい街並みが残っていますので、次回をお楽しみに。
伝寝屋長者屋敷跡はここ↓↓↓