【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第4弾!8月23日、24日は地蔵盆。寝屋川市内でも地域のお地蔵様の提灯に灯がともり供養が行われています。
地蔵盆とは子どものためのお祭りであり、子どもの健やかな成長を願ってお地蔵様を供養する行事ですが、主に関西で行われている行事で寝屋川市でもお地蔵様の提灯に灯がともり、果物やお菓子がお供えされています。
地蔵祭では、お地蔵様のある町内の人々がこの日にかけてお地蔵様の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、祠を飾り付けて、地蔵の前に集って灯籠を立てたり供え物をしたりして祀ります。
地蔵盆には、地蔵の据えられる祠の周囲などに、地蔵盆独特の提灯が飾られます。
お地蔵様のことを「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」と言いますが、この地蔵菩薩の縁日(えんにち)を「地蔵会(じぞうえ)」と呼びます。
ここで言う縁日(えんにち)とは「特定の神仏と縁を結ぶ日」と言う意味があり、この日にはお祭りや供養といった行事が行われます。
地蔵会(じぞうえ)は毎月24日とされていますが、旧暦の7月24日前後2〜3日間に行われる地蔵菩薩のお祭りのことを「地蔵盆」と言います。
このように、かつては旧暦の7月24日前後で行われていた地蔵盆ですが、月遅れの8月24日前後2〜3日間で地蔵盆を行うという地域が多いようです。
こちらは太秦のお地蔵様ですが、朝から地域の方々が集まってお飾りをしています。
毎年は8月23日、24日の二日間行われる地蔵会ですが、2020年は新型コロナウイルス感染症の影響で一部行事の内容を変更し1日で行うとのことでしたが、子どもたちにはお菓子が配られるということでした。
太秦の地蔵尊はここ↓
こちらは、寝屋川市駅前大通りさわやかロードに鎮座する茨田池出世地蔵様です。
茨田池はもとの河内湖であった可能性が強く「まむた」とは、湿地帯をさす言葉であるともいわれていますが、『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが次のように記載されています。
この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。
さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。
しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、下流へ流れて行ってしまいました。
衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。
(寝屋川市のホームページ茨田の堤より引用)
この絶間は、現在の太間ですが、茨田の池の範囲は現在の寝屋川市駅辺りまで広がっていたのかもしれません。
この茨田の池出世地蔵尊も提灯が飾られていました。
元来、五穀豊穣や疫病退散を祈願して行われてきた伝統行事やお祭りが、今年は中止になったり、縮小になったりしているのは、残念なことですが、お地蔵様を大切に思い、子どもたちの健やかな成長を願いつつ、伝統行事を守ってきた地域の方々のご努力によって現在があります。
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茨田池出世地蔵尊はここ↓