【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第2弾!古代河内海は河内湖となり現在は深野池に名残り。何故?深北緑地に転がる大きな石。

寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第1弾では、寝屋川市の地形から、縄文時代に思いを馳せました。

古代河内海は河内湖となり、現在は深野池(ふこのいけ)に名残を残しています。

【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第1弾!地形から読み取れる縄文時代。寝屋川市の半分は海だった!

古代河内湖は、干あがりつつも、江戸期には北の深野池(ふこのいけ)、西の新開池(しんかいいけ)を残し、そこを寝屋川が貫いていました。

河内湖

四條畷市立歴史民俗資料館

Twitterで大阪平野の発達の様子をわかりやすく示してくれています。
たしかに太古に思いを馳せていると、次々と興味がわいてきて止まらなくなります。

寝屋川市、大東市、四條畷市に囲まれたあたりに、深北緑地公園があります。
 
深北緑地(ふかきたりょくち)は、大阪府大東市深野北と寝屋川市河北中町にまたがって所在する大阪府営の多目的遊水地として整備された公園で面積は約41.0haあります。
治水施設として寝屋川治水緑地の名称も使われています。
緑地の西側は寝屋川と、北は江蝉川、南は権現川に接していて、平常時は運動広場や公園として利用され、大雨の時には増水した河川の水を一時貯留することによって、洪水による被害を防止する遊水地の役目を担っています。
 
深北
 
この一部に、その名も深野池として、そこそこ広いヨシ原が残っています。
 
残念石
 
豊臣秀吉の頃、大阪城築城に生駒山系から切り出された花崗岩は、船に乗せられ、川下りするのですが、中には荷崩れを起こして、深野池の底に沈んだものもあります。
 
残念石
 
江戸期の大和川の付け替えの後、深野池も新田開発で干上がってきたため、あちこちに石垣になれなかった石が転がっています。
 
残念石
 
これを残念石と呼んでいます。
自然石とは違い、タガネで切り出した跡や、所有者の刻印が残っています。
大阪城だけでなく、京街道の文禄堤に使われる予定のものもあったかもしれません。

残念石説明パネルの写真を見ると、河内湖が縮小し、安土桃山時代には、深野池(ふこのいけ)と新開池に大きく2分された状況がわかります。
江戸時代になり、1704年に大和川の付け替え工事がありました。
その結果、旧大和川水系からの水は、これらの池に流れ込まなくなったため、水かさはますます減り、そこを田んぼにしようと新田開発が盛んになります。
新田で有名なのは、新開池を開拓した鴻池新田ですが、寝屋川市域でも深野池に河内屋北新田が開拓されました。
これから「河北」の地名が生まれました。
今では、大和川は大阪市と堺市の間を区切るイメージがありますが、その昔は河内湖にいくつもの分流となり流れ込んでいたんですね。
大和川付け替えのモチベーションは、旧河内湖にあたる北河内一帯の洪水対策でした。
大和川付け替え後、寝屋川市域の洪水は減るものの、寝屋川が増水すると低湿地の寝屋川市や大東市は水害に見舞われる状況は、昭和にも続いていた、と言う状況になります。
 
2012年8月にも寝屋川市駅前一帯が水没したことがありました。
この時、深北緑地を見に行ったところ、遊具や施設もすべて冠水していて、まさに湖と化していて、治水のための公園が役目を果たした姿とは言え、かなりの衝撃でした。
まだまだ治水対策は自然とのいたちごっこになります。
 
わたしたちは、北河内の地形や治水の歴史から学び、いつ来るかわからない自然災害に備えていく必要があります。

梶本様、情報提供ありがとうございます。

さて、寝屋川市の小中学校は今日から2学期の始業です。
短かった夏休みですが、よい思い出を作ることができましたでしょうか。
号外ネットでは、引き続き歴史を紐解くシリーズをお送りいたします。
 
 
 
寝屋川市はここ↓
 
neyamon

号外NETの広告出稿はこちら

号外NETメルマガ

号外netは持続可能な開発目標(SDGs)を支援します

号外netへの提供提供求む!

コミュマッチ