【寝屋川市】寝屋川市の歴史を紐解くシリーズ第5弾!寝屋川にも堤防で囲われた「輪中」があった!サイフォンの原理を応用した「久左衛門樋」とは?

昭和30年代の木田町の写真をご提供いただき、その写真にある水路や船を興味深く拝見していたところ、寝屋川市にも堤防で囲われた「輪中」があったという情報提供をいただきました。

木田町

西川様提供

この写真は、昭和37年12月に木田町で撮られたもので、京阪寝屋川市駅から歩いて3分のところで西川氏が祖父の舟を撮影したものということです。
 
寝屋川市にも堤防で囲われた「輪中」があった!
 
輪中(わじゅう)は、長良川・木曽川河口域が有名ですが、かつては寝屋川市にもあったそうです。
古代河内湾が干上がって大阪平野はできましたが、寝屋川市の西半分は当時の海中で、このため低湿地で山に雨が降ると、すぐ洪水になっていました。
河内湾については、以前の記事でご紹介したとおりです。
 
 
そこで周囲を堤防で囲んだ輪中の村が出来ました。
京阪電車の寝屋川市駅から南側一帯がそうです。
その地域は、高低図で見ると川に隣接した盆地のようになっています。
 

梶本様提供

 
輪中の西側は寝屋川の堤防であり、その堤防は今も機能しています。
面白いと思ったのは、堤防で囲むと田んぼに水が引けなくなるので、どこからか引いてこないといけないことや、集落からの排水をどこかに流さないといけないという点です。
うかつに堤防の一部を切り欠いて周囲の川と水の出入りをさせると、天井川の寝屋川では増水時に大洪水になってしまいます。
 

梶本様提供

 
サイフォンの原理を応用した伏越樋とは?
(ふせこしひ:寝屋川市木田)
 
そこで、豊臣秀吉が開削した寝屋川と平行して流れる用水路から、寝屋川の下をくぐる導水のトンネルを江戸時代に掘って取水することにしたそうです。
今も、その跡が残っています。
昨日(2020年10月20日)行ってみると、草が生い茂っていました。
 
伏越樋

伏越樋

 
伏越樋

梶本様提供

 
伏越樋は、サイフォンの原理を応用して、川の下を潜って用水を送るしくみです。
寝屋川堤防右岸下の中木田町共同墓地の堤防の下に樋堰口があり、「寝屋川」西側を流れる「二十箇用水」(にじっかようすい)から木田地区に用水を入れました。
 
伏越樋

伏越樋

 
江戸時代の享保年間(1716~1736)に「二十箇用水路」と旧木田村との間を流れる寝屋川の下を掘って、用水を潜らせる工事の完成に当時庄屋の久左衛門が苦心したので、この樋を別名「久左衛門樋」ともよびます。
 
伏越樋

伏越樋

 
寝屋川に沿って走る道路は、文禄年間(1592~1596)に「文禄堤」が造成されて、淀川から分離された「古川」の氾濫を防ぐために慶長年間(1596~1615)に造成された寝屋川の輪道(慶長堤)で、現在も利用されています。
 
寝屋川

寝屋川

 
下の写真は、寝屋川の西に並行して流れる「二十箇用水路」です。
寝屋川市民には、お馴染みのタコ公園(友呂岐緑地公園)に沿った水路です。
伏越樋は、この「二十箇用水路」との高低差を利用してサイフォン式で木田の輪中の中に水を引っ張る役目を果たしていました。
 
「二十箇用水路」は人工的に作った用水路で、今はあまり流れはありません。
もともと、もう1本西にあった水路は、排水路として使われていたので「友呂岐悪水路」と呼ばれていました。
友呂岐悪水路と二十箇用水路は、現在では、桜木町の友呂岐二十箇水辺公園のところで、統合されて「友呂岐水路」と呼ばれています。
 
享保年間以前には、木田地区での内水災害の防止のために「囲堤」が整備され、堤が文字通り、輪になっていて、その輪の中の集落でした。
 
 
現在でも京阪萱島駅から萱島東通商店街へ行く途中の下り坂が「囲い堤」の土手址となっています。
 

梶本様提供

道路兼用の小堤防・「縄手」で集落を囲み、集落を洪水から守ったその堤なのです。
 
寝屋川

萱島から寝屋川方面

 
また排水は、同じ寝屋川が勾配の関係で水位が下がった輪中の南端に二重のゲートを設けて、寝屋川が増水の時には閉めて排水口からの逆流を防いだようです。
また、二重のゲートとなっているので、出口側の水位が高い時、輪中の内側のゲートを開けて水が2つのゲート内にたまるようにして、水位が出口側と同じにまでたまると、内側のゲートを閉め、外側のゲートを開けることで、水位差のある寝屋川と輪中内の運河の間で舟が出入りできる工夫もしていたそうで、この仕掛けは電動に変わりましたが、今もからくり樋としての機能としては残っているようです。
 
昭和30年代の木田町

西川様提供

 
この水利を工夫したおかげで、木田輪中は米どころとして財政的にも潤ったようです。
 
 
 

これは、木田地区で現在でも使われている段蔵です。
農機具などを入れていただけでなく、大切な物が水害に遭わないように、段々と床が高くなっています。

西川様提供

 
木田町の街並み。

旧家が現存する街並み。

 
蔵のある古民家。
お庭の植木も立派です。
 
こちらは西川様よりご提供を受けた木田町の昭和34年夏の写真です。
 

西川様提供

 
このように昭和30年代の寝屋川はまだまだ、水郷の風景を残していたことがわかります。
このあと、寝屋川市駅が移動し、街はどんどん変わっていきます。
続きは、次回の寝屋川市の歴史を紐解くシリーズをお楽しみに。
 
西川様(写真、当時の様子)、梶本様(地図、解説)情報提供ありがとうございました。
 
 
木田町はここ↓
neyamon

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